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ラファエル前派とは/画家とモデル/ラファエル前派の絵画/女流画家/オフィーリア/挿し絵とテキスト

 

*ラファエル前派の画家たち*


BGM「シチリエンヌ」@music by miszt

*若き同志たち

1848年、ロイヤル.アカデミーの学生で画家の卵だったウィリアム.ホルマン.ハント、ジョン.エヴァレット.ミレイ、ダンテ.ゲイブリエル.ロセッティら三人によってラファエル前派兄弟同盟団が結成される。当時のアカデミー(イギリス画壇)はルネサンス期のラファエロの絵画を模範としていた。彼らは、保守的でアカデミックな絵画を批判し、革新的な絵画を目指そうとする。ラファエロ以前に活躍した芸術家たちの作品に霊感源を求めたのであった。

イタリアのピサのカンポ.サント内のフレスコ壁画に基づく版画集を皆で研究し、自然を前にして、目に映るものはどんな細部でも描き尽くしたのである。ラファエル前派の画家たちは、真実の目的を持った芸術、率直にものを見る態度をよみがえらそうと望んでいた。ラファエル前派は、さらに画家ジェームズ.コリンソン、F.G.スティーヴンズ、彫刻家トマス.ウルナー、ロセッティーの弟ウィリアム.マイケル.ロセッティを加えた。
彼らのグループ精神は、次のようなものだった。

「1.独創的なアイディアを持つこと。2.表現のために自然を注意深く観察すること、3.過去の芸術の真剣で率直で誠実なものを好み、反対に古い慣習、自己欺瞞、型にはまったものを拒絶すること。4.最も重要なのは絵でも彫刻でも絶対に美しいものを制作すること。」

宗教的な主題の作品は、そのリアリティゆえに、世間の激しい非難をあびたが、そんな彼らを擁護したのは、当時イギリスで影響力を持っていたジョン.ラスキンだった。ラスキンの「自然に学べ」という思想は、ラファエル前派の画家たちを後押しし、熱心な擁護のお陰でラファエル前派は、少しずつ世間に評価されていく。

彼らは、中世ゴシック様式の細部を把握しようとしたり、ドイツのナザレ派の影響を受け研究したりした。ナザレ派とはヨハン.フリードリッヒ.オーファーベック、ユリウス.シュノール.フォン.カロルスフェルト、フランツ.プフォル、ヴィルヘルム.シャドウなどが、1809年にウィーンで聖ルカ同志団として結成したグループである。
その後、彼らは、詩など文学的な主題、伝説、歴史へと主題を求めていった。
キーツ、テニソン、コヴェントリー.パットモアなどを取り上げる一方で、シェイクスピア、ダンテ、アーサー王など古典や神話の分野にも広がっていく。

彼らは、芸術運動から生まれた文学作品を掲載する「芽生え」という名の月刊誌を発行した。1850年からわずか4号までで廃刊となったが、前衛芸術運動の出版物として高い評価を受けている。

「ラファエル前派の流れ」はこちらです。

*フランスから見たラファエル前派*

1855年、パリ万博でラファエル前派の作品が初めて欧州大陸に紹介された。大のイギリスびいきだったドラクロアは、礼賛したが、テオフィル.ゴーチエの言葉には皮肉めいた調子がうかがえる。ふたつの文章はこちらです。

*日本の文壇とラファエル前派*

日本にラファエル前派が伝えられたのはいつの頃からだったのでしょうか。こちらもどうぞ。

*兄弟同盟の画家たち*

* ジョン.エヴァレット.ミレイ(1829〜1896)


23歳のミレイの肖像と晩年のミレイの写真


「イザベラ」1848〜9年制作(ワインを手にするのが、F.G.スティーブンス、その奥がW.デヴェル、犬を蹴っているのがJ.ハリス、グラスを空けているのがゲイブリエル.ロセッティ、口をぬぐうのは、ミレイの父、ロレンツィオ役は、ロセッティの弟、イザベラ役はミレイの義兄弟の妻がモデルだった。)

ジョン.エヴァレット.ミレイは1829年、裕福な家庭に生まれ、ジャージー島で育った。
「天使の顔」と評された美少年だった。幼い頃から画才に恵まれ、1840年11歳でロンドンのロイヤル.アカデミーに最年少で入学する。アカデミーの神童と呼ばれたが、古色蒼然としたアカデミーを批判、ハント、ロセッティーと共にラファエル前派兄弟同盟を結成。1949年、アカデミー展に出品した「イザベラ」はラファエル前派の原則にそって描いた最初の作品である。
イザベラとロレンツオの不幸な恋愛が悲劇に終わるボッカチオの「デカメロン」から詩人キーツが採用した激しい主題(イザベラ、またはバジルの壷)を扱っている。

ミレイや仲間たちの最初の絵は売れ、順調なスタートを切ったが、翌年、宗教的な主題の作品ミレイの「大工の仕事場のキリスト」や、ロセッティの「エクシ.アンシラ.ドミニ」は激しい非難を浴びた。聖家族を大工の仕事場のさもしい事物に結び付けたのは神への冒涜だという批判だった。批判の嵐は翌年も収まらなかったが、ジョン.ラスキンのエッセイ「ラファエル前派主義」で若い芸術家たちを擁護して、ラファエル前派は、次第に世に認められるようになる。

その後、1852年に発表した「オフィーリア」は、ミレイの名声を決定的にした。だが、1853年には皮肉にも反発していたロイヤル.アカデミーの准会員に選ばれ、ラファエル前派の仲間たちから離れていく。
ロセッティは、妹にあてた手紙で「昨夜ミレイが会員に選ばれたと聞いた。円卓の騎士は、今や完全に解散した。」と書いている。

家庭にも恵まれたミレイは、家族を養うために、時間のかかる精密な描写は放棄するようになる。
大衆向けのロマンティックな主題や子供の絵、よい収入になる肖像画などに専念し、国民的人気画家になった。

* ウィリアム.ホルマン.ハント(1827〜1910)

若き日のハント(ロセッテイ作)、1860年のハントの写真



「ドルイド教徒迫害からキリスト教伝道者をかくまう改宗したブリトン人家族」1849〜50年制作

1827年ロンドンに生まれた。父親は商店の支配人だった。1839年に会社勤めを始めたが、1844年、3度めの受験で念願のロイヤル.アカデミー美術学校に入学。肖像画と模写で生計をたてた。ラファエル前派結成後は、ラスキンの「近代画家論」を愛読。難解な象徴に満ちた宗教画で独自のスタイルを確立する。

*ダンテ.ゲイブリエル.ロセッティ(1828〜1882)


若き日のロセッティ(自画像)と1863年のロセッティ


「聖母マリアの少女時代」1849〜50年制作 
(母フランチェスカと妹のクリスティーナをモデルに使ったこの作品は、ロセッティ最初の油彩画。
デッサン不足を自覚していた彼は落選を恐れ無審査の自由展覧会に出品した)

1828年、ロンドンに生まれた。父親はイタリアからの政治亡命者でロンドン、キングス.カレッジでイタリア語の教師をしていた。弟マイケルは、ラファエル前派運動の主要な記録係、妹クリスティーナは詩人として名声を得ている。(ロセッティも画家とデビューした頃には、詩も書いていた。)
1844年ロイヤル.アカデミーに入学し、ミレイやハントに出会い、ラファエル前派同盟を結成。技巧とデッサン力においては、ミレイ、ハントが上であったが、ロセッティの人を引きつけてやまないカリスマ性と天性の知力がこの運動を推し進める原動力になる。同性、異性に関わらず、多くの人を魅了し、彼らに影響を与えた。
ラファエル前派の中心となるが、妻の自殺、友人の妻とのスキャンダル、薬害による衰弱、晩年は作品は荒れ、心身を病み孤独な一生を終える。

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*運動の波及

1850年代半ばになると、ラファエル前派同盟の趣旨が問題にされるようになる。脱会や辞任が相次ぐ。
ミレイは、存在理由を疑問視しだし、仲間との連帯意識を失っていった。ハントは聖地に旅立ち、仲間たちの作品には様式の一致は見られなくなっていた。

兄弟同盟は崩壊したが、ラファエル前派運動は、イギリス全土に広がった。複製画も一役買っているが、バーミンガム、マンチェスター、リヴァプールなど商工業の中心地に住む中産階級出身の新興出資者たちがメセナとしてラファエル前派の絵を競って購入したのだった。

*オックスフォード

1854年、エドワード.コ−リ−.バン.ジョ−ンズ(1833〜1898)や、ウィリアム.モリスら(1834〜1896)がオックスフォードで学んでいる間、ミレイの雑誌やラスキンの講議を通して、この運動の業績が評価され、今度はロセッティを中心とするラファエル前派主義が高まりはじめる。ロセッティはモリス、ジョーンズに多大な影響を与え、二人は学問を放棄し画業に勤しむことになった。ロセッティの懇切丁寧な指導を受けて、バーン.ジョーンズとモリスは、レッド.ライオン.スクウェアの彼の工房の最上階で共同生活をしながら絵画制作を始めた。

モリスは、中世的な背部の高い木製長椅子を設計。美術よりも装飾芸術に才能を発揮する。
バーン.ジョーンズは、正規の美術教育こそ受けなかったが、その後、世紀末イギリス最大の画家になった。

  
ウィリアム.モリスの肖像 1870年          モリスのデザインの木製肘掛け椅子、1860年代


バーン.ジョーンズ1890年と「夫の帰還を待つブルターニュのドリゲン」1871年作

*オックスフォードの壁画

翌年ロセッティはオックスフォード大学のユニオン弁論室の内部装飾の仕事を受け持つ。そのときに助手を募り、そのなかには、モリス、バーン.ジョーンズ、アーサー.ヒューズ、フィリップ.ウェッブ、ヴァル.プリンセップ、ハンガフォード.ポレン、スペンサー.スタナップ、アレクサンダー.マンローなどがいた。テーマは「アーサー王の死」から選ばれ、中世に相応しいフレスコ画法を用いることになった。彼らは互いに騎士の姿でモデルとなって熱狂的に仕事を進めていった。

だが、残念なことにこれらの装飾画はほとんど現存していない。彼らのなかで絵画制作の知識を持っていたものはわずかで、フレスコ画法についてはもっと少なかった。壁画はまたたく間に劣化してしまった。

*レッド.ハウス

1859年、モリスはモデルだったジェイン.バーデンと結婚。モリス夫妻の住まいレッド.ハウスにはロセッティをはじめ、バーン.ジョーンズ、マドックス.ブラウン夫妻、アルジャノン.チャールズ,スウィンバーン、フォークナーなどが頻繁に訪れるようになる。彼らは、同邸のために一連のテンペラ画を企画したり、ステンドグラスをデザインした。

モリスの妻ジェインは重厚な綾ラシャ製のカーテンにひなげしのデザインで刺繍したが、これは後にモリスが発表する最初の壁紙デザインのひとつとなる。

レッドハウスは、数々の創造の巣箱になり、そこから「モリス.マーシャル.フォークナー商会」という世俗的な冒険的事業が生まれた。バーン.ジョーンズ、ロセッティ、ウェッブ、ブラウンなどが商会参与及び株主となった。

こうしてラファエル前派の仕事は絵画にとどまらず、多岐にわたっていく。

  
モリスデザイン更紗織1883年    と    モリスとバーン.ジョーンズの共作「アダムが耕しイヴが紡ぎし時」1884年


フォード.マドックス.ブラウン「アダムとノア」1865年、ダンテ.ゲイブリエル.ロセッティ「山上の垂訓」1862年

*唯美主義運動.ラファエル前派の末期

ラファエル前派の画家たちの関心は、多様化し、その傾向は19世紀末まで続くのだった。

バーン.ジョーンズは、モリスとの仕事で、ステンド.グラスや綴れ織、後には書物の挿し絵のデザインを手掛けた。だがモリスとは違い、彼は絵画の制作を続け、G.F.ウォッツやラスキンの影響を受けて、完全に独立した顕著な様式を確立した。
またロセッティととも、19世紀後半に花ひらいた文学、および芸術への関心に重要な役割を果たした。彼らがその一部を形成した唯美主義崇拝は、他のラファエル前派の画家たちを刺激した。シメオン.ソロモン、ウィリアム.ベル.スコットやスペンサ−.スタナップはロセッティ一派が持つ官能主義、象徴主義運動全体への、はっきりした親近感を示した。

一方ハントだけはそれに批判的で、同盟を動機づけた最初の原理を適用し続けた。ハントは自然主義と歴史的正確さの一体化に戻った。ハントは回想録で、彼自身がラファエル前派主義の唯一の忠実な使徒であり、同僚や仲間に影響した唯美主義や象徴主義の気取りの潮流に抵抗して仕事をしたという自負を述べている。

ミレイは俗物揃いの一般大衆に愛されたが、感傷的で商業的な絵画を多く描き、かつての美術改革の旗手であった事は、もはや遠い過去のことになってしまった。1885年には、准男爵の爵位を与えられ、1896年王立美術院の院長となった。

*再発見

1890年代、ラファエル前派は、完全に没落した。20世紀前半には、30年代のシュールレアリストたちを除いて人々はラファエル前派を拒絶するか、無視した。
しかし、1948年にロビン.アイアンサイドとジョン.ギアの著書「ラファエル前派の画家たち」が出版されると復活の動きが始る。



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