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サロンの歴史1(イタリア)/ルネサンス雑学メモサロンの歴史2(フランス)/ロココ雑学メモ

◆サロンを彩るヒロインたち◆


文芸サロンのはじまり

文芸または芸術サロンは、いつの時代に始ったのだろうか。

古い記録によると、スペインにおけるイスラム文化が絶頂に達した10世紀から11世紀にかけて、首都コルドバのカリフの娘で詩人のヴァラダーが文芸サロンといえるものを開いていたという。ヴァラダーの詩が女性に向けられていることからレズビアンであったとも言われ、アンダルシアの詩人イブン.バッサームは、ヴァラダーのサロンを詩人や作家たちが勝利の栄冠をめざして闘う競技になぞらえた。

その後、ある国に新たな文化が生まれるたびに知性、教養のある女性が中心になってサロンを形成するようになる。イタリアルネサンスの宮廷サロン、17世紀から19世紀におけるフランスのサロンなどに引き継がれていくのだった。

15〜16世紀イタリアでは、アカデミアと呼ばれる社交サークルが沢山作られた。それは古典や文学、哲学を論じ合ったり、文芸愛好者の集うクラブといった趣だった。メンバーは定期的に集まっては、歌や踊りや遊びに興じた。ソネットやマドリガーレが朗唱され、喜劇が演じられた。ルネサンス期のシエナでは2万人の人口のうち、20あまりのアカデミアが作られたのだった。
アカデミアのなかには、エリート中心の文芸サークルもあれば、仮面舞踏会を開催したり、田舎風コメディを演じたり、民衆風恋愛詩を吟じたりするものや、通りに座って通行人を品定めし批評し合うというサークルもあった。

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*イタリア ルネサンス*

◆6編のリュート曲に乗せて、6人の女主人のサロンの様子、芸術家との関わりなどを書いてみました◆

15世紀のイタリアは、小都市が集まっていました。その頃の地図はこちらです

*イザベッラ.デステ(1474〜1539)


(イザベッラの肖像画ティツィア-ノ作、右は、レオナルド.ダ.ヴィンチの素描)

フェッラーラ公国を治めていたエステ家に生れた。6歳にしてイザベッラは当時の国際語であるラテン語、ギリシャ語を流暢に話し、ドイツ語、スペイン語、フランス語、トルコ語も話したという。

1490年マントヴァのゴンザーガ公爵家に嫁ぐ。
宮廷では、舞踏、音楽、オペラ、芝居、道化や小人の出し物などの娯楽が生活を多彩な魅力あるものにし、退屈を感じさせなかった。
とりわけ芸術や文学を愛したイザベッラは、マントヴァで芸術サロンを開き、学者や芸術家、文学者などを招いた。
ただ、それは彼女の名声と権力を誇る意味を持っていた。
当時の画家は、工房の親方という地位にすぎず、ごく小数の例外を除いては、かなり貧しい状態のなかにおかれた。マンテーニャは、50年もゴンザーガ家の忠実なお抱え画家であったにも関わらず、貧窮のうちに亡くなっている。
(ゴンザーガ家の「夫婦の間」(1465〜74年)マンテーニャ作テンペラ、油彩)

イザベッラは、芸術家に制作を依頼するときは、いつも自分で勝手に主題を決めてしまい、作品の細部にわたって指図しようとした。偉大なレオナルド.ダ.ヴィンチ(1452〜1519)が、再三の彼女の懇願にも関わらず、その肖像画を描かなかったのは、イザベッラの権威主義に嫌気がさしたのではないかと言われている。ジョヴァンニ.ベッリーニも絵の主題のことでイザベッラと激しくもめている。

芸術家に対しては冷酷な専制者であったが、イザベッラの鑑賞眼は鋭く、政治的洞察力にも優れ、常に新しい動向に細心の注意を向け理解しようとした。他人の面倒もよくみたので多くの人から慕われ、その社交術は小国マントヴァや実家フェッラーラを政治的侵略から守ることにもなった。
彼女は、手紙もこまめに書き、記録も残した。現在でも彼女の四万通もの書簡が残されているという。


芸術を愛した彼女はラファエロやミケランジェロ等の作品を研究したり、芸術の新動向を知るために、若い美術家たちをローマに派遣したりしている。
彼女は、フェッラーラの噂話や流行りにも乗り遅れまいと、毎週故郷で起こることも知りたがった。情報を集めて送る係の者がいて、イザベッラはそこからローマの遊女トゥーリアがフェッラーラヘ来た様子やトゥーリアの恋愛スキャンダル、ローマでの異端の疑いから逃れてきたペスカラ公爵夫人(ヴィットリア.コロンナ)の様子などを詳しく聞いたりしていた。

イザベッラと最も親しかったのは、ウルビーノ公爵と結婚した義姉のエリザベッタ.ゴンザーガ(1471〜1526)である。エリザベッタの周りにも教養ある洗練された男女のグループが集まった。イザベッラとエリザベッタは、書簡往復と相互訪問によって情報交換してそれぞれの知的好奇心を広げていった。

晩年のイザベッラは、邸宅の最上階に数々の美術品と本に囲まれて、亡くなるまで芸術家、詩人相手のサロン生活を続けたのだった。

*チェチリア.ガッレラーニ(不明〜1536年)


(チェチリアの肖像レオナルド.ダ.ヴィンチ作

レオナルド.ダ.ヴィンチ作「白テンを抱く貴婦人」その人である。
彼女の幼少期のことは、何も記録に残っていない。階級は低かったが、当時の女性としては珍しくラテン語の教養を身につけていた。美しさに加えて、機知、教養、寛大さを兼ね備えた女性であった。
1489年頃、彼女はミラノ公国のルドヴィコ.スフォルファ(通称イル.モーロ)の愛妾となった。
イル.モーロは、チェチリアを愛していたが、すでに1480年から名義上は、フェッラーラ公国エステ家の娘ベアトリーチェ(イザベッラ.デステの妹)と結婚していた。彼らの公式の婚儀は、1490年に執り行なわれることになっていたが、イル.モーロが、何度も延期したため、ミラノとフェッラーラの同盟が危うくなり、もはや結婚を先送りできなくなり翌年1491年結婚式を行うことになった。チェチリアは、このとき身籠っていた。

ベアトリーチェは、不器量で気難しい上嫉妬深く、姉であるイザベッラとも仲が悪かった。自分が姉よりも権力と富のある夫を持った事で、優位に立てると喜んだ。
また、ベアトリーチェはチェチリアに対し事あるごとに辛く当り、追い出すようにしむけ、ついに翌年彼女は、ロドリコ. カルミナーティ.デ.ブランビッラ伯爵と結婚させられた。新婚夫婦は、イル.モーロがチェチリアと自分の間に出来た息子に贈ったパラッツィオ.カルマニョーラ宮殿に住むことになった。そこで彼女は当時の知識階級や、スフォルファ家で旧知の友人たちを招き、サロンを開いた。

当時の著作家たちは彼女の知性と教養、女主人としての才能を賞賛した。1499年、イル.モーロが失脚すると、チェチリアは、マントヴァのイザベッラ.デステのもとに匿ってもらうが、安全になると祖国に戻った。(イザベッラとは、1498年頃レオナルドが描いた彼女の肖像画を見せて以来文通を交わしたりする仲だった。)

モーロとの間にもうけた息子に先立たれ、夫も翌年亡くなって深い悲しみを味わうが、知的娯楽という彼女の楽しみを生涯捨てることはなかった。彼女の周りには、常に新しい世代の詩人や、学者が集まった。F.A.デッラ.キエーザは、チェチリアが、きわめて優雅にラテン語で書簡をしたためたが、ラテン語だけでなくイタリア語でもたいそう淑やかに詩を詠み、偉大な哲学者や神学者の前でも生き生きと機敏に議論したと伝えている。

*ヴィットリア.コロンナ(1492〜1547)

 
(ヴィットリア.コロンナの肖像、ポントルモ作)  (ヴィットリアをモデルにしているミケランジェロの「最後の審判」部分とデッサン1536年頃)

イタリアのルネサンス期きっての聖なる徳を備えた婦人。コロンナ家は、代々ローマの旧貴族で聖職との関係が深かった。1509年、ペスカラ候アルフォンソ.ド.アヴァロスの息子フェルナンド.フランチェスコと政略結婚させられる。ヴィットリアの結婚は数年を除き、幸せとはいえなかった。
夫は、何人かの愛人を作り、彼女は寂しさを紛らわすように一群の芸術家、文学者たちと交わり、サロンを形成する。ヴィットリア自身は、早くからオーヴィディウスに刺激されて詩作に励むようになっていた。
ヴィットリアは、詩人ガレアッツォ.ディ.タルシアや、ジローラモ.ブリトニオなど、多くの男性たちから情熱的な愛を捧げられたが、どんなときも貞節を貫いた。

1520年に父を、23年には母を失い、25年には夫がミラノで客死した。彼女はまだ若かったが、身内の相次ぐ死により世俗的生活をやめ、コロンナ家と関係が深かったローマのサン.シルヴェストロ尼僧院にひきこもった。
ヴィットリアは宗教や倫理について深く瞑想した結果を詩に書いたりした。

ヴィットリアは、ある日カプチン派の僧侶ベルナルディーノ.オキーノ(1487〜1564)の説法を聞き、たいへん感銘を受ける。オキーノは、改革派のフランチェスコ教団に属しており、ファン.バルデスの信望者であった。
オキーノが説法を始めると周りに人が集まり、人々はその弁論に耳を傾け。その発想に感嘆した。
ヴィットリア達がバルデスやオキーノを支持したのは、それまでの宗教の失われた純粋さへの渇望からだった。

1535年、彼女は、画家ミケランジェロ(1475〜1564)と出会う。
ふたりは互いに惹かれ合い、彼女を通して当時の新しい宗教改革の流れに触れたりしたことは、ミケランジェロの作品にも多大な影響を及ぼした。
ふたりが出会った頃ミケランジェロは、60代、ヴィットリアは40代後半であり、まさに円熟した大人のプラトニックな恋であった。
ミケランジェロは、多くの詩(ソネット)を書いて彼女に捧げたり情熱的な手紙を何通も書いた。あまりにも頻繁だったため、ヴィットリアがお互いの手紙に費やす時間で仕事ができなくなるのを危惧したほどだったという。
彼女は自分の全詩集をミケランジェロに捧げ、彼はこれを革の豪華な本に装丁し、生涯大切に保存したという。

ヴィットリアの晩年は不幸で、孤独と寂寥のなかでの悲しみの日々の連続だった。
生涯をかけた信仰や努力は世間から理解されず異端視された。ローマ教会の異端者に対する取り締まりは厳しく、彼女はその弾圧に勝てず、宗教裁判所にオキーノの書類を渡してしまう。裏切りであった。
激しい悔恨と恐怖に絶望的になった彼女は、死に救いを求めるようになる。病が身体を蝕んでいきチェザリーニ館で危篤の時を迎えた日、ミケランジェロが呼ばれた。ヴィットリアは、祈りの言葉が思い出せず、ミケランジェロと共に最後のお祈りの言葉をつぶやき、彼の腕のなかで息をひきとった。

ミケランジェロは、ヴィットリアと過ごした思い出の場所に何度も足を運び、「彼女と共に味わった歓喜よりも、苦悩の時を愛する」と常に語っていた。


*トゥーリア.ダラゴーナ

15世紀末から1527年の「ローマの略奪」までの時期、ローマにおいて「高級娼婦」と呼ばれた女達が活躍した。彼女たちは、立派な館に住み、華麗な衣服や装飾品をまとい、貴族たちの相手ができるだけの教養と品位をも身につけていた。ルネサンス期の高級娼婦を代表するのは、チェーザレ.ボルジアの情婦だったフィアメッタ、「アカデミア.ロマーナ」に集まる教養人のほとんどを相手にしたといわれるインペリア、他には、ラ.グレケッタ、コルセッタ、ナンナらがいた。

トゥーリア.ダラゴーナも、高級娼婦のひとりだった。彼女は詩人でもあり、リュートやクラヴィチェンバロなど楽器を弾いたり、容姿の美しさとともに魅力的な声も持ち合わせていた。

ローマではプラトンやペトラルカが話題になるようなサロンを設けた。当時音楽は歌曲「フロットラ」、他にも「マドリガル」などが流行していた。彼女は楽器を奏でながら美しい声で歌った。衣装にも気を使い、刺繍入りのビロードなどを買い求め、ペルシアの薔薇から採った香、コルセットに縫い込むためのトルコ石など宝石類も集めた。
トゥーリアのサロンでは政治が話題になることも多く、その評判や噂はフィレンツェにも達していたという。

フェッラーラでのトゥーリアは上品なサロンを構え、華麗な衣装と宝石を着飾っていた。
彼女もまたオキーノの信望者で、自作の詩をオキーノに捧げた。トゥーリアとヴィットリアはローマからフェッラーラに同じ時期に来たため、ふたりは、オキーノの説教の席で頻繁に顔を合わせた。ふたりは対照的な境遇と性格をしていたが、自然に説教やフェッラーラや詩のことについて親しく言葉を交わすようになる。
当時の詩人は、ふたりを次のように例えている。
「ヴィットリアは月で、トゥーリアは太陽だ。」

フィレンツェでは、アカデミア形式のサロンを開いた。ここには、ルイジ.デ.トレド、その子息ピエトロ、ニッコロ.マルテッリなどが参加した。
あらかじめ予告されたテーマに添って議論されたりした。とても平穏な日々が続くと思われたが、1546年、フィレンツェで娼婦に対する禁令が出た。それは、娼婦は宝石も絹の衣装も着用できず、頭を黄色のヴェールで覆わなくてはならないというものだった。
トゥーリアは、重要人物を介して、特別に法律の適用から除外されるが、屈辱は拭い切れずアカデミア再建にはいたらなかった。
だが、1547年に二冊の本を出版することができた。「詩集」は、エレオノーラ.デ.メディチ大公妃に捧げられ、「対話録」は、コジモ大公に捧げられた。

晩年はローマの安宿で、ただ一人の小間使いと暮らした。発病してからは、かつての侍女夫婦が看病につとめた。
そして三人に看取られて静かに息を引き取った。

*インペリア(1485〜1512)


インペリアは本名ルクレツィアといい、母親は高級娼婦だった。
インペリアも14歳から娼婦になり、17歳で女児を出産。父親は、後の枢機卿サドレートか大富豪アゴスティーノ.キジではないかと言われている。
インペリアは、月にたとえられる程の美貌の持ち主で、その美しさを讃えた詩がたくさん残っている。
隣人の画家ラファエロとは親しい友人で、ラファエロ(1483〜1520)は、インペリアをモデルにヴィーナスを描いたこともあるという。
彼女は ニッコロ.カンパーナという男から詩作を習い、自作のソネットや、マドリガルをカンパーナに作曲してもらって歌ったりした。多くの男性と関わったが、そのなかで最も愛したのがアンジェロ.デル.ブファロというローマの名家の男性だった。ところが、アンジェロが他の女性に気持を移したのを知り、裏切られたインペリアは、絶望のあまり毒を仰いで自らの命を断ってしまう。生前の彼女をよく知り愛していた男達は皆その死を悼んだ。

*ルクレツィア.ボルジア(1480〜1519)



悪名高いチェーザレ.ボルジアの妹。
「この女の顔を見る者は、一目見て盲となり、ついで石となる。」
ルクレツィアの眼差しの魅力は当時このようにうたわれていた。
だが、恐るべき一族ボルジア家の男達の手先として政略結婚の道具にされ、彼らの野望の犠牲者でもあった。

ボルジア家の家系は、スペインの出で、その美貌、知力、冷酷な野心で抜きん出る多くの人材を比較的短い間に生み出したため、名もない一族であったのが流星のごとく浮かび上がったのであった。その中のひとり、枢機卿だったロドリコ.ボルジアが美しい愛人に産ませたのが、チェーザレと、妹のルクレツィアを含む数人の子供たちだった。

ルクレツィアは13歳のとき、ペサロ領主ジョバーニ.スフォルツァと政略結婚させられたが、ほどなく離婚させられ、もっと有力なビシェリエ公へ嫁がされる。ビシェリ公とルクレツィアは心から愛し合うが、まもなくチェーザレとビシェリエ公は敵対するようになり、ある日ビシェリエ公は、チェーザレの指図で暗殺されてしまう。その背景にはチェーザレの激しい嫉妬があったようだ。

ルクレツィアの三度めの結婚相手は、フェッラーラ公国のエステ家の息子アルフォンソだった。アルフォンソは、あのイザベッラ.デステの弟である。彼らはイタリアのヴェキオに中世から続いている壮大なお城で暮らし、そこで彼女は、サロンを開く。彼女のまわりには詩人など文化人が集まったが、そのなかの詩人ピエトロ.ベンボや、同じく詩人のエルコレ.ストロッツィなどと親密な交際の果て、ストロッツィが全身に短剣の傷を負い、マントにくるまれ街頭で発見されるという恐ろしい事件がおきた。
またルクレツィアの相談役だったイザベッラ.デステの夫ゴンザーガ公爵とも深い仲になったりしたが、イザベッラは軽蔑しながらも見て見ぬふりで過ごしていたという。
ルクレツィアのサロンは、単に浮き名を流す場所だったのかもしれない。
だが、最後の12年間は夫アルフォンソとの仲も睦まじくとても平穏に暮らし、5人の子供たて続けに産んだ。
1519年、彼女は、7か月で女児を早産。
産褥のため、39歳で世を去った。



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