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サロンの歴史1(イタリア)/ルネサンス雑学メモサロンの歴史2(フランス)/ロココ雑学メモ

*17世紀〜19世紀のフランス*


BGMはF.クープラン(1668-1733)の「3pieces pour clavecin(クラヴサンのための3編)」です


17世紀 ランブイエ公爵夫人のサロン

フランスのサロン文化は、ルイ14世の時代ヴェルサイユ宮殿から始まり絶対的な文化の座を誇っていたが、その後、文化の中心はパリの数多くのサロンに移っていった。そしてそれらのサロンは革命的な思想をはぐくんでいた。

フランスのサロン文化の直接の先駆となったのは17世紀前半にランブイエ公爵夫人の開いたサロン。一流の詩人、貴族たちが集うオテル.ド.ランブイエは、パリ第一の社交場となり、エスプリや洗練された趣味を競う文化は、のちのサロンの手本となった。
18世紀になると上流夫人たちがこぞってサロンを開き、競い合って一流の文人や思想家を招いた。
画家ヴァトーも通ったランベール公爵夫人のサロン、ルイ15世の寵妃となる前のポンパドゥール夫人が常連となっていたタンサン公爵夫人のサロン、市民階級の出で、百科全書家たちのサークルにもなったジョフラン夫人のサロン、哲学者ヴォルテールを愛人としたドゥファン公爵夫人のサロン....

これらのサロンでは自由で批判的な精神が愛され、思想はわかりやすい会話のなかで伝えられていった。また啓蒙的な思想が広まり、三権分立の思想を基礎づけたモンテスキュー、人間の自由と幸福を説く立場から辛辣な文明批評をしたヴォルテール、啓蒙思想の金字塔といわれる「百科全書」を編さんしたディドロやダランベールなどが人気を博した。サロン文化や啓蒙思想は、フランスのみならずヨ−ロッパ全体に大きな影響を及ぼしたのである。

パリのサロンを見たジャン.ジャック.ルソーは、「パリでは女性なしには何もできない!」と語ったように、新しい思想や文化は、女性たちの開くサロンによって生み出され、大きく花開くのだった。
こうした自由の思想は、自由な市民の社会をめざすフランス革命へと発展していく。

*ド.ランブイエ公爵夫人(1588〜1665)


ド.ランブイエ公爵夫人の肖像

カトリーヌ.ド.ヴィヴォンヌ。
父親は、ローマ駐在フランス大使、母親は、ローマの貴族出身であったことから、イアリアの気風を持ち続けた。
1600年に12歳で、ド.ランブイエ公爵シャルル.ダンジェンヌと結婚し、10年間に7人の子供を産んだという。
当時のフランスは、イタリアに比べ、それほど発達しておらず、アンリ4世時代の粗野な気風に愛想をつかした夫人は才気ある婦人や、教養ある紳士を我が家で集め、フランス文学サロンの第一ページを飾ることになった。

彼女が模範としたのはルネサンスイタリアの宮廷サロンだった。だが、ランブイエ夫人の関心は社交そのものにあったので、彼女のサロンでの話題はもっぱら手紙と格言、技巧的な会話、サロン詩といった社交的なジャンルに限られた。
彼女のサロン「オテル.ド.ランブイエ」は1617年リュー.サン.トーマ.デュ.ルーヴルに新築されることになり、ランブイエ夫人が細部にわたって自分で設計にあたった。
新しいサロンは「青の部屋」と呼ばれた。それは当時の流行色の赤や赤褐色ではなく青い浮織を貼った壁で作られていたからであった。サロンの間は同時に庭園付き寝室であり「ルエル」と呼ばれる通路によって壁を隔てておかれたベッドに女主人は掛けて客を応対するしきたりになっていた。この新しい形式は、その後一世紀にわたり保持された。

サロンに集まった人々は、グラン.コンデ、リシュリュー枢機卿、詩人マレルブ、バッキンガム公爵、ド.ロングヴィル公爵夫人、大コルネイユ、唯美主義者のビュシ.ラビュタン、ロシュフ-コー、ジル.メナージ、ジャン.ド.メール、ジョルジュ.ド.スキュデリとその妹マドレーヌ、などである。
作家たちは、このサロンの集まりの席で音楽が奏され、自作や他作の朗読を行い、また新しい作品の注釈、批評が交わさた。

このサロンの最盛期は、1638年から1645年で、それ以降は次第に没落していった。言葉の礼賛が次第に極端になりはじめ、楽しい集いの筈が、まるで言語アカデミーのようになってしまった。集う婦人たちは、モリエールから「才女気取り」とあからさまに嘲笑された。

ド.ランブイエ公爵夫人の最大の功績は、国王の権力圏外にその座を築き、宮廷の脇舞台においてではなく、自分の館内でフランス最初の文学サロンを持ったという点にあるといえる。

*ド.ラ.ファイエット夫人(1634〜1693)


ド.ラ.ファイエット夫人の肖像画

マリ.マドレーヌ(後のラ.ファイエット夫人)は、1634年パリは、リュクサンブール宮で生まれた。父は、技術将校であったが、当時枢機卿だったリシュリューの要請により、宮殿で甥の教育指導にあたっていた。父親は、リュクサンブール宮の真前のヴォジラール街に広大な地所を買って館を建て、一家はそこへ移り住む。
それは噴水と四阿風の書斎のある家で、彼女の友人に言わせれば、「一息つくために、パリで一番美しい場所」だったそうである。父親は戦術ばかりでなく美術の才もあり、自分の館には、美しい家具、絵画、珍しい本、版画などの蒐集品を並べていたという。
マリのなかに、美を理解し、見い出し愛する資質は、父から譲り受けたもので、母からは、経済的なところや、几帳面さ、理性的なところなどを受け継いで育った。
そんな幸せは長く続かず、マリが15の頃、父は亡くなり、翌年母親は再婚する。
マリは、生まれながらの才智と美貌に恵まれながらも、父のいない娘で、母は、再婚してしまったということもあり、なかなか良い縁に恵まれなかった。
1655年、21歳で、ラファイエット伯と結婚し夫の故郷オーヴェルニュへと移り住む。当時としては晩婚だった。
ところが7年後、マリは、突然ヴォジラール街へ戻って来てサロンを開くようになる。
彼女は、あまり社交的なタイプではなく、ひかえ目なたちだったので、この館を訪れる人は多くはなかったが、彼女の友人はいずれも上質な人ばかりだった。ド.セヴィニエ夫人は、ある手紙で、「ラ.ファイエット夫人の庭は、世にも愛らしいものです。すべてが花開き、すべてが香っています。わたしたちは、ここで幾夜も夜会の時を過ごしました。」とその素晴らしさを讃えている。ラロシュフコーは、セーヌ街から毎日かかさず通っていた。
1678年、44歳のときマリは、小説「クレーブの奥方」を出版。この一作の「心理小説」によって、彼女は一挙にモリエール、ラフォンテーヌ、ラシーヌについでフランス古典文学の殿堂入りをするのだった。

*ニノン.ド.ランクロ(1620〜1704)


ニノン.ド.ランクロの肖像画

父親は殺人の嫌疑で外国に逃亡したので、母親とニノンは二人暮しを余儀なくされた。高級娼婦という卑しい身分ではあったが、周辺の多くの情夫から最も価値のある男たちを選んで生涯の友にするという才能がそなわっていた。
いつも絽とレースの服を着、軽やかで純粋な風貌の持ち主だったらしい。

当時のフランスは、恋愛や情事についてはあまり偏見がない国ではあったが、信仰となると、そうはいかなかった。
彼女は平気で無神論的自由思想を誇示したため、ルイ14世の母親で摂政のアンヌ.ドオトリッシュによってマグダラの僧院へ送られることとなった。この報にパリ中が沸き立った。あれほど魅力に富み、教養ある女が僧院送りとは...ニノンのとりまきの連中の交渉によりマグダラ僧院からもっと世俗的な尼僧院に移され、訪問もかなり自由に許されたので、スウェーデンのクリスティーナ女王も、彼女のもとを訪れた。


ニノンの僧院生活は8か月で赦免となり、1678年、プラス.デ.ヴォージュで家を買い、文芸サロンを開いた。彼女サロンには、それまでになかった新しい時代の息吹が芽生えていた。常連にはモリエール、ボワロー、ラ.フォンテーヌ、ヴォルテール、友人のスカロン夫妻、ジャン.バプティスト.リュリなどがいた。

ニノンのテーブルにはいつもモンテーニュの著書が置かれていた。彼女に伝統的価値に対する懐疑の眼を開かせてくれたのはモンテーニュだった。モンテーニュに限らず彼女は偉大な著作を愛したが、自己の内的自由は常に保持し続けた。「私の無知はいっさいの自由を私に許してくれますので、私は無知を楽しんでいます。」と彼女らしい言い方で表明した。彼女は当時としては珍しいほど音楽にも関心を示し、確かな鑑賞眼も持ち合わせていた。フランスオペラの創始者リュリは死ぬまで彼女のサロンの常連だったし、ドイツから音楽家パンタレオン.ヘーベンシュトライトを招かれてティンパノンの演奏をしている。
晩年になっても彼女は若い精神を持ち続けながら社交界を魅了し続けた。


*ド.ランベール夫人(1647〜1753)

会計院の監査官の娘で、夫は将軍であった。夫を亡くした後1710年から33年までの23年間ヌヴェール公から譲り受けたマザラン館(現在のパリ国立図書館)の一翼に当時の最も名高い人々を招いた。
アンヌ.テレーズ.ランベール夫人は厳しい道徳感、鋭い観察眼、深い懐疑主義、限りない才気を持つ女性であった。
彼女のサロンの最大の掟は良心の洗練と、伝統の重視、人間性の尊重におかれていた。
18世紀初頭における教育、婦人、社交の事に触れたランベール夫人の著作は、まさしくサロンの心得ともいうべきものだった。
彼女のサロンには、画家のヴァトーや、音楽家のクープラン、ラモー、モンテスキューなどがいた。またランベール夫人のサロンはアカデミーの控えの間の役割を果たしていた。モンテスキューは、夫人の文芸サロンを足がかりにアカデミー入りをしたのだった。

*アドリエンヌ.ルクーヴルール(1690〜1730)



帽子屋職人の娘として生まれた。半分気違いの父親と暴力をふるう母親であったが、アドリエンヌは、キリスト教学院の修道女のもとで救いを見い出す。15歳のときパリに移り、彼女は町内の子供や若者を集め食料品屋で舞台稽古をした。この噂を聞いた法院長が自宅に招き、アドリエンヌの劇は評判をよび、これは役者になるきっかけになった。

彼女は完璧な肢体を持ち、中背で高貴な自信のある態度をとり、眼は輝きに満ち、様子、物腰には大変魅力があったという。彼女の演技には何よりもまず真実味があった。
1717年に彼女はコメディ.フランセーズでデビューし、成功をおさめる。彼女が芝居に出ると劇場は大入り満員となった。
アドリエンヌはマレー通り(今のヴィスコンチ通り)にサロンを開いた。ヴォルテール、ラ.ロシュフーコー、リシュリュー、ジューヴル公、ブゾン元帥、ベリール元帥などの上流貴族の姿が見られた。またメーヌ王妃、ランベール侯爵夫人、ポンポンヌ夫人なども常連であった。
深紅色のビロードを張りめぐらし、フランドルのタピスリーをかけた寝室には、ダブルベッド、低い長椅子、花模様の肘掛け椅子、黒いモロッコ革と緑色のダマスカ織りの二つのソファが置かれ、書棚とクラヴサンもあった。アドリエンヌとヴォルテールは一時期恋愛関係にあったが、終わった後も互いに友情と敬意を抱き続けた。

その後、モーリス.ド.サックス伯に出会い、彼女は思わず息をのむ。この人こそ「英雄」だと思ったのだった。4年にわたる相思相愛の恋が始った。彼は優秀な軍人であったが、礼儀作法も教育もない武骨ものであった。彼はアドリエンヌの元で教養を身につけていく。彼女は読書を勧め、フランス語を矯正してあげたり、絵画や音楽を教えた。彼のために自分の宝石を売却してお金を用立てたりもした。が、サックス伯はアドリエンヌを捨て、ブイヨン侯爵夫人のもとに走った。この侯爵夫人は、アドリエンヌを殺そうと企み、知人を通じて彼女に手渡すようにと毒の錠剤をことづけた。だが、知人が一切を打ち明けたため命拾いをする。
1730年、演じていた舞台の上でアドリエンヌは突然苦しみだした。再び毒殺の企みであろうと人々は噂したが確証はない。
自宅に運ばれたときには、危篤状態であった。
彼女は自由思想家で、ミサもお祈りも祝別した墓所もいらない、ただ、神が万人に与え給う土地のみをいただきたいと明確に述べて息をひきとったのだった。

*ジョフラン夫人(1699〜1777)


父親は身分の低い召し使いの出で、彼女は幼くして孤児になり、祖母の手で育てられた。「女の子には学問はいらない。」といって高度な教育は受けさせてもらえなかった。ジョフラン夫人が若い頃容姿が優れていたかどうかは不明だが、決してコケットな女性ではなく、流行のモードを追ったりせず地味な生活をしていたらしい。

そんなジョフラン夫人が1730年、リュ.ド.サントノレに住む近所の夫人に誘われて初めて彼女のサロンで知性あふれる人々に出会い、会話を通してすっかり魅了されてしまった。
その夫人の名は美貌と才智で知られるド.サンタン公爵夫人といい、彼女とジョフラン夫人は火と水ほど違っていたにも関わらず、堅い友情で結ばれた。これを機に、最初は少しずつ、教養深い人達と関わるようになり、我が家の応接間に招くようになっていった。ここにジョフラン夫人のサロンが成立するにいたった。市民階級の女性が作った初めてのサロンであった。

ド.サンタン公爵夫人亡き後は、彼女のサロンの客を全部引き受け、ヴォルテール、ルソー、ディドロ、ダランベール、ドルバック、マンモルテル、エルヴェシウス、グリム、老フォントネルから諸外国の王侯、女帝までが顔を見せたヨーロッパ随一の文芸サロンの女主人公にのしあがった。

夫人のサロンの特色は、これまでのサロンから拒絶されていた造形美術家たちに門戸を開いたことである。
それは明らかに時代の偏見への挑戦であった。
画家のブーシェをはじめ、港と水の画家ファンタン.ド.ラ.トゥール、戦争画家フランチェスコ、スーフロ、グルーズ、ルモワーヌ、シャルル.ニコラ.コーシャン、カルル.ヴェルネ、シャルル.アンドレ.ヴァン.ローなど、絵描きや建築家が堂々とサロン入りしたばかりか、夫人は彼らから73枚の絵を買ったりした。最初の頃は、哲学者、文学者、美術家、美術愛好家、批評家、考古学者などを曜日別に分けて呼んでいたという。
しかし、ディナーで出されたものは、鶏、ほうれん草、オムレツといつもだいたい決まっていたようで、この庶民的な食事をみても、彼女の市民的デモクラティックな考え方からきたものに違いない。

晩年彼女は、自らを回顧して次のように語っている。「人々は、私が取るに足りない一市民女性にすぎぬと陰口をたたいたりしたが、しかし私は礼儀正しい女だったのです。私はエスプリのある人々に熱中し、私の芸術家、文学者、科学者を庇護しようと思ったのでした。」

*ド.ポンパドゥール公爵夫人(1721〜1764)


ド.ポンパドゥール公爵夫人の肖像右は、ブーシェ作、左はファンタン.ド.ラ.トゥール作)

もとの名をジャンヌ.アントワネット.ポワソンといった。徴税請負人の下で働く男性を父に、肉卸業者の娘を母に持つ生粋の市民階級の出であった。母親の愛人であった裕福な実業家の庇護を受け、その甥(貴族)との結婚によって貴族の地位を得、それを足がかりに国王ルイ15世の寵妃の座を射止めた。寵妃となる前には、パリの タンサン夫人のサロンやジョフラン夫人のサロンの常連になっており、彼女の見識はサロン文化に培われたものであったと思われる。
サロンでは早くからフォントネル、モンテスキュー、マルヴォー、デュクロ、ピロンなどと知り合っていた。彼女は啓蒙主義に関する知識を仕入れ、国王の愛妾として自分のサロンにこれらの大胆な革命思想家を招くという、かねてからの夢を実現させたのだった。
また夫人は、歌や楽器、デッサンから博物学まで、一流の文人、芸術家に教えを受けた才女でもあった。
画家ブーシェの登用、自由な思想のとりでであった百科全書の刊行擁護、インテリアと工芸品を愛し、特にセーブル焼の発展に貢献した。

*ジュリー.ド.レスピナス(1732〜1776)




ジュリーが叔母のデュ.デファン夫人のサロンを手伝うようになったのは22歳になったばかりの頃であった。デュ.デファン夫人のサロンは午後6時からであったが、常連客の間で5時に来た客がサロンが始るまでの間ジュリーの部屋に迎えられるということがわかるや、多くの客がジュリー目当てに時刻前にやってくるようになった。
ジュリーは、若く生き生きとした快活な知性により彼らを魅了したのだった。ジュリーの部屋では、ダランベール、マルモンテル、シャステリュ、チュルゴが寄り集まるようになった。
事態を知ったデュ.デファン夫人は裏切られたと思って怒り、ジュリーを追い出すことにした。だが常連客のほとんどは、ジュリーの新しい住まいにつめかけ、デファン夫人のサロンはほとんど空になってしまった。

ジョワズール公は、ジュリーのために国王からの年金を手に入れてやり、ジョフラン夫人は、彼女に年間千エキュ支給し、リュクサンブール元帥夫人は家具を提供した。ジュリーの小さなサロンには、パリ中の知識人がつめかけた。ジュリーはデファン夫人とは異なり、哲学的精神に好意的であったので、「百科全書のミューズ」と名づけられた。「彼女のサロンほど会話が生き生きし、華々しく均整のとれたところはどこにもなかった。」とマルモンテルが述べている。
ダランベールとジュリーは共に私生児であったことから共感し合う。

ダランベールはジュリーを愛していたし、彼女も彼の事を愛していると信じていたが、ある日ジュリーは、フランス駐在スペイン大使の息子モラ侯爵と知り合い、相思相愛の恋が生まれた。彼らの恋は6年続いた。モラ侯爵はジュリーとの結婚を考えたが、家族に反対された。ジュリーはジュリーで、もはやサロンを閉じることもできないほど多くの客や同志を抱えていた。モラ侯爵はマドリッドに出かけてしまい、便りも届かなくなってしまう。ふたりは知らなかったが、家族が彼らの結婚を恐れて手紙を差し押さえてしまっていたのだった。

ジュリーは、知人の家で軍団長ギベール侯爵と出会い、その魅力に惹かれていく。ほどなく、この恋はオペラ座で成就するのだった。
ところが一方、モラ侯爵は何も知らないまま重い病気にかかり、マドリッドで瀕死の時を迎えていた。医者や家族の制止をふりきってジュリーに会いにパリに行こうと旅立つが、途中、ボルドーで息絶えてしまう。モラから最期の手紙を受け取ったジュリーは驚き絶望し、自分が彼を殺したのだと自分を責めた。ジュリーは、阿片を大量に飲んだ。ギベールは彼女の枕元に駆けつけたが、間に合わなかった。ダランベールは、ジュリーのそばにいて悲劇の一部始終を知り理解した。

*レカミエ夫人(1777〜1849)


(ジェラール作レカミエ夫人の肖像)

旧姓はジュリエット.ベルナール。リヨンの公証人の娘として生れ、幼少時を修道院で送る。1793年同じリヨン出身の銀行家 ジャック.レカミエと結婚。夫は42歳、ジュリエットは15歳だった。夫の財力に恵まれた若妻は、スタール夫人のサロンに通い、夫人と固い友情で結ばれる。そして翌年にはパリのショセ.ダンダンや、クリシーの館でジュリエットもサロンを開くようになり、彼女はその美しさでたちまち時の人となる。彼女の客には、将軍ベルナドット、マッセナ、モローや外交官メッテルニヒ、画家ダヴィット、ジェラール、などがいた。

ショセ.ダンダンというのは、単にひとつの通りの名前ではなく、パリの一界全体、フォーブル.サン.ジェルマンの古い貴族階級に対抗する形で上昇をとげた銀行家、大商人、財界の巨頭、資本家などのブルジョワが建てた豪邸の立ち並ぶパリの一角のことを指していた。(19世紀初頭ショセ.ダンダンでの夜会の様子

当時は革命の緊張が去り、女性たちは古代ギリシャ風衣装を好んだ。その流行の先端にいたのがレカミエ夫人だった。彼女は好んで白をまとい、宝石も真珠に限られた。ご婦人たちは、スタール夫人風にターバンを巻き、レカミエ夫人を真似て首のスカーフを波うたせるのが流行りになった。
彼女のサロンは、「文芸愛好家たちの避難所」で、ヨ−ロッパ文学の聖域であり、政治的要素を全面に押し出していた他のサロンにくらべ、独自のロマン主義芸術的な道を歩んだ。また彼女は「ほれぼれする程の聞き上手」であったとも言われている。
サロンでの彼女の人気は絶大で、マティユウ、ラヴァル公爵、ナポレオン三世の弟リュシアン、ベルナドット、アンペール、ノアイユ公爵、バランシュ、など数多くの男性から愛された。

ナポレオン三世の弟、リュシアン.ボナパルトから最初に熱烈な求愛があったが、夫は「あの人を絶望させてはいけない。しかし何も与えないように。」と忠告した。以後、なびきそうでなびかない、という彼女の恋愛作法となる。
夫のレカミエ氏は、ジュリエットの母ベルナール夫人と過去に愛人関係にあり、彼はもしかしたらジュリエットの本当の父親ではないかという説もある。

夫の忠告には従っていたものの、彼女は生涯に二度の恋をする。最初は29歳のときにプロイセンの王子アウグストだった。彼女は王子とスイスのコペーの館で愛を語らい、結婚の誓約書をかわすが、夫は離婚に反対し、結局結婚にはいたらなかった。諦めきれない王子に夫人は、ジェラールの描いた肖像画を彼に渡した。絵はその後30年間ずっと彼の手元にあったが、1844年彼が亡くなると彼女のもとに送り返されてきた。

1819年、夫が二度めの破産をして、サンジェルマン地区のこじんまりとしたアパルトマンに引っ越ししたレカミエ夫妻は以前よりも質素な生活を送ることになった。ここで彼女は、二度めの恋をする。夫人が愛したのは、作家で外交官シャトーブリアンであった。ふたりはパリの郊外シャンティーの森で愛を語り合った。シャトーブリアンは50歳、レカミエ夫人は40歳であった。
シャトーブリアンは、レカミエ夫人のアパルトマンに足繁く通ったが、やがて彼はリューマチのため動けなくなり、夫人は白内障を患い失明してしまう。すでにどちらの配偶者も亡くなり、シャトーブリアンは彼女に結婚を申し込むが、夫人の答えは「ノン」だった。「私がもっと若かったら喜んであなたに人生を捧げたでしょうに。」
シャトーブリアンは翌年の1848年病気で亡くなり、次の年、レカミエ夫人も後を追うように息をひきとった。

モンマルトル墓地にはレカミエ夫人の墓地があり、墓標には5人の名が刻まれている。彼女と彼女の両親、そして本当の父親だったかもしれない夫、そしてもうひとりは、彼女の友人ピエール.シモン.バランシュ。
彼はサロンの常連だった哲学者で、夫人よりも前に亡くなったが、ふたりは同じお墓に入る約束をしていた。
バランシュは、35年間ひたすらレカミエ夫人に純粋な想いを寄せ、ただ同じ墓で眠ることを望んだのだった。

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19世紀の文芸サロンには、激動のなかにあって文学者、画家たちのサロンは、一種の避難所になっていた。ジョルジュ.サンド、マリー.ダグー伯爵夫人、ルイーズ.コレ、ジュリエット.アダンらのサロンがそうであるが、ヴィクトル.ユーゴー、フロベール、ゾラ、エドモンド.ド.ゴンクール、アルフォンス.ドーテなど著名な男性作家もサロンを開いていた。

造形美術関係ではアンブロワーズ.ヴォラールのような画商の家がサロンの中心になっていた。ヴォラールは1893年リュー.ラフィットにモダンな店を構え、ゴーギャンの全作品セザンヌのタブロー150点を買い上げて展示した。また地下に食堂と台所を作り、そこをサロンにして有名画家たちを招いた。
またニーナ.ド.ヴィラールはピガール広場に近いリュー.シャプタル17番地に画家、文学者の集まるサロンを作った。

他にもベルジョイオーソ夫人、マチルド皇妃、アンスロ夫人、ド.カイヤヴェ夫人、ジョルジュ.ジャルパンティエ夫人他多数の女主人がいた。
また高級娼婦たちの開いた文芸サロンもあり、ロワーヌ夫人、アポロニ.サバティエなどのサロンがそうであった。

20世紀初頭には、なおパリに多くの文芸サロンがあったが、これらのサロンのほとんどが、19世紀からの延長線上にあり、没落期に入りつつあった過程において消滅してゆくべき宿命を背負っていたといえよう。



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