*ロココとは

18世紀フランスのロココ様式は、歪めた貝殻状の装飾「ロカイユ」を曲線状にしたものを基本モチーフとしている。
ロココとは、ロカイユがイタリアで訛ってロココと呼んだことから名付けられたという。
*美術アカデミーと歴史画
芸術家の指導やサポート、身分保証など、美術の進展を図る事を目的として公に作られた美術家の組織。
初めて作られたのは、ルネサンスイタリアで、それまでの職人と同じ立場に置かれていた画家や彫刻家を支援し、高い地位と自由な立場を与える目的で発足した。
フランスでは、1648年、ルイ14世の時代に設立。正式名は、王立絵画.彫刻アカデミー。
芸術家育成、展覧会開催の他に、ローマ賞を設け、一位の者にローマ留学という特典を与えた。アカデミー会員となるには、まずアカデミー付属の王立美術学校で学ぶのがもっとも普通の道であった。またアカデミーでは神話や文学や聖書から題材を得たり、英雄の登場する歴史事件などを壮大なスケールで描く歴史画が最も高い地位におかれていた。そのため、歴史画を提出して
アカデミー会員になることは、最高の名誉とされていた。
アカデミー入りの資格に関しては、案外柔軟だった。ヴァトーの場合、本人に画題を選ばせ、その作品の出来が素晴らしかったので、「雅宴画」という新しいジャンルを設けたりし、シャルダンの場合は、正規のアカデミー教育は受けていなかったばかりか、20歳近くになってから修行を始めた独学の人だった。得意な分野は、当時はそれほど重要視されていなかった静物画や風俗画。そんな無名な画家にもかかわらず、シャルダンに作品を見せられた審査員は、即日彼を会員にしたのだった。モーリス.カンタン.ド.ラ.トゥールも、パステルという当時は新しい素材を使い、ほとんど独学でアカデミー入りを果たしたのだった。
若き日にローマ賞を受賞したブーシェは留学中にイタリアロココを代表する画家ティエポロと知り合ったりした。
*画家ヴァトー
ロココ時代の開幕を告げた画家はジャン.アントワーヌ.ヴァトー(1684〜1721)であった。
優雅な装いの男女が野外で楽しむ愛の宴の情景こそがヴァトーのテーマであった。
絵画は貴族趣味であったが、ヴァトー自身はフランス領フランドル地方の町ヴァランシエンヌの屋根葺きの親方の息子で、16歳の時、画家になろうと志し、ほとんど無一文でパリに出てきたのだった。
パリに出たヴァトーは、舞台画家クロード.ジローに弟子入りする。後にヴァトーの絵に見られる芝居の世界はジローのもとで見い出したものだった。この演劇的な要素は上流社会の生活の描写と混じり合い、ヴァトーの幻想的な独自の世界を築きあげていく。1709年24歳頃、美術アカデミーのローマ賞に出品し2位を受賞。3年後再度挑戦し、ついに一位を獲得。ローマ留学を夢見たヴァトーであったが、アカデミーはヴァトーの技量を見て、留学して勉強する必要なしと判断した。これはヴァトーを落胆させたのだった。
華やかな画風から「恋の画家」ともてはやされたが、若いうちから胸の病に罹り、実生活では華やかな現実からかけ離れたところにいた。そんなヴァトーに献身的に付き添っていたのが、彼の長年の小間使いでモデル、愛人でもあったフリポットである。
彼女はしなやかな肢体を持ち、おしゃれで、優しく情愛の深い善良な女性であった。ヴァトーは繰り返し彼女を描きとめた。
やがてヴァトーは床についたきり、起き上がれなくなってしまう。彼は長い間フリポットを眺め、その優美さに感動する。
臨終が近づくとヴァトーはデッサンでみだらすぎると判断したもの焼却させ、残った絵を友人に分け与えた。
ヴァトーがアヴェ.マリアをとぎれたつぶやくような声で歌い、フリポットは泣きながら耳をすませる。
そしてヴァトーはむせび泣くフリポットの腕に抱かれて息をひきとった。36歳であった。

*ロココの音楽

ハープシコード(クラブサン) フランス製 1763〜84年頃
クラヴサンから流れる優美でわかりやすい旋律が宮廷やサロンなど社交の場に花を添えた。
モーツァルトもこの時代に生れロココスタイルで作曲した時期がある。パリのサロンに招かれて、クラヴサンを弾く少年モーツァルトの絵が残されている。

オリヴィエル作「パリのコンティ公の茶会でクラヴサンを弾く少年モーツァルト」
*ロココファッション


ロココ時代のフランスはモード産業が最も繁栄した時代であった。その優雅なファッションは、ヨーロッパ全土で爆発的な人気を誇り、強力な輸出産業となった。女性のドレスの特徴は、パニエ入りのローブ。パニエとは鯨の鬚などで作ったドレスの下につける枠で、これを腰につける事によって、ドレスを広げ、前後の厚みをフラットに、左右のふくらみを誇張した。ドレスのふくらみによって、きつく絞られたウェストの細さを印象づけることができた。
男性ファッションは、丈の長いコート状の上衣であるジュストコール、その下に着ける袖つき長胴着のジレ、半ズボン状のキュロットに絹の靴下が基本だった。それらには、金糸、銀糸などによる美しい刺繍が驚くべき入念さで施されていた。

*かつらと髪型

男性にとって、かつらは、絶対の必需品だった。自前の髪だけでは凝った形にまとめるのに限界があったためだった。
かつらのサンプルは、実に150種類もあり、需要に対し有能なかつら師の数は不足していた。かつら師たちは莫大な収入を得たため権力も絶大であった。かつらには必ず髪粉が用いられ、小麦粉やじゃがいもの澱粉でできた粉を老若男女が頭にふりかけたのだった。
おしゃれ好きな人の間では金色の髪粉を使うのが流行ったりした。貴族やブルジョワたちは、それをつけるための専用の部屋を持っていて、召し使いが髪粉を天井高くふりまくと、それが頭を均一に染めてくれるという風だった。
ルイ15世の時代までは、女性のヘアスタイルは、シンプルで小さかったが、1760年後半になってくると、髪型はひたすら上へ上へと高く大きくなり、誇張されていく。
髪結いは、いかに高く盛り上げていくかのテクニックを追求した。自前の髪だけでは無理なので、髪のなかに瓶を入れて結いあげるなどという方法が考えだされた。なかには3フィートに達する者も現れて、頭をシャンデリアにぶつけ壊してしまうという事件も起こった。髪型にはたいへんな手間と費用がかかるため、人々はできるだけ長い期間髪型を保っていたので、不衛生きわまりなかった。
オペラ座では、高い髪型では後ろの席の人が舞台を見られないということで、1778年ついに高い髪の女性の入場を禁止してしまった。

当時の風刺画より
*ブドワール
ロココ時代は女性上位の時代であり、洗練された社交がたいへん重んじられた時代でもあった。
ある程度の経済的余裕があって、美貌と才気があれば、女性たちは、貴族、平民に関係なく皆サロンを主宰することを夢見た。
女主人はサロンに全力を打ち込み、陰で尽くすのは夫の義務であり、そうする事が立派な紳士とされた。夫から妻への内助の功が求められる時代だった。
サロンでは、インテリアから料理まで全てにおいて、女主人のセンスの良さが問われた。
サロンが女主人の表の顔なら、ブドワール(夫人の私室)は、彼女の裏の顔を意味する居住空間であった。
夫人たちは、プライベートな時間をここで過ごした、鹿足の曲線の脚を持つ豪華な文机で手紙を書き、コレクションを愛でたり、読書を楽しむ。(文机には、お金や貴金属、恋文などを隠す、からくり仕掛けで開ける秘密の引き出しがあった。)
ロココ人は、こまめに日記や手紙を書いた。そこでは、具体的内容よりも、いかに巧みに綴るかというレトリックが磨かれた。
他にもブドワールでは着替えやお化粧、小間使いを相手におしゃべりしたり、逢い引きに利用されたりもした。
ブドワールは夫ですら無断で入ることのできない妻の聖域であった。

ブーシェ作「化粧」1742年
この作品は女主人がブドワールで身づくろいしている様子を描いている。
女性の目尻にあるのは、当時流行したつけぼくろ。後ろのついたては、やはり当時流行していた中国趣味(シノワズリ)の図柄である。
*古代趣味
1730年に始ったヘルクラネウム発掘と、それに続くポンペイの発掘は、古代に対する西欧の人達の知識と豊かなイメージをふくらませた。それ以前にはルネサンスの時期に古代文芸の復興があり、ギリシャ、ローマの文化遺産は芸術家たちに大きな影響を与えていた。しかし、ミケランジェロやラファエロが知っていた古代の遺品は、主としてローマやその周辺に残されていたものに限られており、それも断片的なものにすぎなかった。
ところが18世紀になると、旅行者の増大や、学問の発達によってギリシャ本土や地中海沿岸地域の古い遺跡が知られるようになる。それらの結果、18世紀後半から19世紀初頭にかけて古代趣味の流行が見られるようになった。それは絵画、彫刻だけでなく、風俗やファッションにも及んだ。
ロココ時代の過剰な装飾は、もはや時代遅れになり、胸のところを帯でとめただけで、白く長いひだを裾まで垂らした簡素な「ギリシャ風衣装」が上流夫人の間で好まれたのである。
