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ラファエル前派とは/画家とモデル/ラファエル前派の絵画/女流画家/オフィーリア/挿し絵とテキスト

**ラファエル前派の女たち**


BGMはアールグレイさん演奏のガブリエル.フォーレ(1845〜1924)
「月の光」です Music by Assam Cafe

*ヴィクトリア朝の道徳観、結婚観

1860年代から70年代を通じて、中産階級の女性の間で、結婚生活における女性の社会的地位への関心が次第に高まっていった。
子供たちは、家で教育を受けるよりも、家庭を離れ、学校に出されるケースが増えて、母親の役割は軽減されてきた。
19世紀の繁栄と技術の進歩は、ブルジョワジーの生活水準を引き上げ、余暇の増大を女性たちにもたらした。
その頃はまだ、家庭から外の世界は、彼女たちに開かれていなかったが、骨の折れる単調な仕事が取り除かれたため、女性たちは、ものを考えたり、社会との繋がりのある時間が持てるようになった。そうはいっても、やはり家のなかでは、夫の良き伴侶であることを求められた。多くの女性たちは、恋愛を夢みて成長するが、結婚によって熱い感情も消え失せ、幻滅の悲哀を味わうに至った。

結婚に期待しながらも、女性は行動するよりも待つことが求められた。男性だけがプロポーズできたのだった。
結婚が愛情だけの問題ではなく、厳しい法的責任の問題でもあったからである。結婚によって背負わされる責任と経済的問題にも心を砕いた。それゆえ、男性は結婚に対して思慮深く慎重になり、なかなか踏み出せないケースも少なくなかった。そういう現象から、こんな絵も生まれた。

一方労働者階級の貧困は特に女性に苛酷な運命をもたらした。未婚女性が就ける職業はお針子ぐらいしかなく、賃金は恐ろしく低かった。生活できず、娼婦や妾に身を落とす女性も少なくなかった。ロンドンに住む全女性の16人にひとりが娼婦だったという統計もある。


1857年夫の暴力などが原因の場合、女性の側から離婚の訴えを出す権利が初めて法律で認められた。それまで中産階級の間では、非公式といえども、特殊な場合を除いて離婚や別居は難しかった。そういう事ができたのは、女性が稼ぎ、自活できた労働階級の領域くらいだった。
離婚者は多かれ少なかれ、自動的に上流社会から締め出され、社会的追放によって海外移住を余儀なくされた。離婚に責任があるとされた配偶者は、子供の後見権を拒否され、そのことが、離婚阻害の要因として大きく作用し、収入の欠如も女性に離婚を求めることを思いとどまらせた。


画家とモデルと恋愛スキャンダル

*エフィ.ラスキン

1853年、ジョン.エヴェレット.ミレイのパトロンだったジョン.ラスキンは、ミレイをスコットランドに誘い、自分の肖像画を描かせる。そのときラスキンの10歳年下の美しい妻エフィも一緒だった。ラスキンとの結婚は名ばかりで、エフィはその悩みをミレイに打ち明ける。
ミレイとエフィは恋におち、エフィは、勇気をふるって結婚無効訴訟を起こす。
長い訴訟期間とすさまじい非難の嵐に耐え、ついに1855年、ふたりは結婚する。
挙式前夜、ミレイは友人に「なにか、とてつもなく恐ろしいことが付きまとっているんです。君、まるで歯医者の器具をちらっちらっと盗み見するときのような気持です。...なにかいやな事でも起こりはしないかと考えて、もう心身ともにくたくたです。」と書き送っている。
それでも結婚後、数カ月たつうち、ミレイは、友だちという友だち全員に「僕は結婚を吹聴しないでいられません。いまはどんなに素晴らしいか、いちいち数えあげていたらきりがありません。男はもともと一人暮らしには向いていないのです。他の人も僕と同じように所帯を持ってしっかりと身を固めてほしいものです」と喜びをあらわにした。
ミレイは、高額な売り値と安易な金儲けのため、ラファエル前派様式の絵を描くことをやめ、エフィの求めに応じて、ラファエル前派の仲間たちとの付き合いからも身を引いてしまう。


*エリザベス.シダル(通称リジー)、ファニー.コーンフォース、ジェイン.モリス


エリザベス.シダル(通称はリジー)ロセッティの素描   リジーの描いた「女たちの嘆き」

1849年、シェイクスピアの「十二夜」の絵を描いていたラファエル前派の画家のひとりが、赤い髪のモデルを探していた。
ある帽子屋の店の奥で赤い髪のリジーの働く姿が目にとまり、リジーは、モデルを頼まれる。
リジーは美人ではないが、繊細で、行儀の良さと、洗練された様子とともに、言葉遣いも完璧だった。それでいて気取ったところもなく、人に対してそれ相応の節度を保つことを心得ていた。そして若い娘らしい清純さがあった。
ダンテ.ゲイブリエル.ロセッティがリジーに会ったのは、それからまもなくで、しばらくは、ただの画家とモデルという関係だった。

そのうちにロセッティは、リジーの絵の素質を見い出し、リジーは彼のもとで絵を描くようになる。リジーの家は貧しく、彼女は画家として自活することを夢見た。だが、女性が本格的に画家として認められるということはこの時代には、ほとんどあり得ないことだった。ロセッティは、それでも彼女を励まし、協力を惜しまなかった。そんなふたりの間には愛情が育っていく。病弱ではかなげな雰囲気のリジーのなかに、詩人ダンテの恋人ベアトリーチェのイメージを見い出したロセッティは、夢中でリジーをモデルにダンテに取材した作品群を制作する。

ふたりの付き合いは長期間に及び、友人たちは皆リジーとの結婚を勧めたが、ロセッティは乗り気になれなかった。新しく出来た二人の友人(モリスとバーン.ジョーンズ)と学生時代の再来を謳歌していたことが大きく作用していた。ロセッティ、モリスらは、その頃、モデルのジェイン.バーデン(のちにモリスと結婚してジェイン.モリスとなる)と知り合ったばかりだった。
ロセッティとリジーは結婚話で喧嘩が絶えなくなり、リジーはロセッティの前から姿を消す。
その頃ロセッティは、娼婦ファニー.コーンフォースと街で知り合い、その魅力におぼれる。
気さくだった彼女に、ロセッティは心を許し、その後も長い間経済的な面倒をみていた。(ファニーとロセッティの関係は、彼の結婚まで続き、間をおいて、また始ったという。)


ファツィオの愛人(オーレリア)」1863〜73年(モデルはファニー)

1859年、リジーは、酷く体調をくずし、危篤状態にあった。リジーは、最後のお別れを言いたいために、ロセッティを呼んだ。
ロセッティは、自責の念にかられ、リジーが回復したら結婚したいと告げた。
リジーは、奇跡的に快方に向い、ふたりは、翌年結婚する。婚約から10年がたっていた。
だが、ロセッティと別れた期間あたりから、リジーは、アヘンチンキ(睡眠薬)の服用が日常となっており、死産を経験した後、アヘンチンキの大量摂取のため、事故とも自殺ともつかない死を遂げてしまう。結婚から2年もたっていなかった。
ロセッティは、書きためていた詩稿を妻の棺に納めて埋葬した。そして亡き妻リジーをモデルに「ベアタ.ベアトリクス」に着手する。



ベアタ.ベアトリクス」1864〜1870年 、リジーを回想して描いたもの 「ブルーナ.ブルネレスキ」モデルはジェイン.モリス1878年 

1868年、この頃ロセッティの描く女性のモデルはジェイン.モリスが多くなってくる。数年前にジェインはモリスとの結婚を半ば一方的に解消していた。
もともとジェインは、モリスのことは、愛していなかったらしい。ジェインは、出会った頃からロセッティが好きだったが、彼には婚約者のリジーがいた。ジェインの生れはとても貧しく、裕福なモリスから結婚を申し込まれると家族の強い勧めもあり、断わることはできなかった。

ロセッティの心は、ジェインに惹かれていった。
ウィリアム.モリスは、ふたりの関係にショックを受けるものの、ロセッティの事を敬愛していたので悪く言ったりはしなかった。
自分は旅に出て、ふたりに館を提供するのだった。

ジェインへの愛からロセッティの詩作への情熱が再燃し、彼は、リジーの墓を暴き、棺のなかの自分の詩稿を取り戻す。
1870年その詩稿をもとに「詩集」を発表し、熱狂的な賛辞を得るが、詩の持つ官能性を批判する論争が巻き起こる。
ロセッティはスキャンダルに怯え、リジーの亡霊や幻覚、幻視などが現れるようになり、錯乱により衰弱してゆく。不眠から飲み出した睡眠剤クロラールを常用し、多量摂取による自殺を計る。一命はとりとめるものの、ロセッティの心身は薬害でますます衰弱していき、1882年、53歳で永眠した。まるでファム.ファタール(宿命の女)に翻弄されて引き寄せられたような最後だった。


リジー、ジェイン、ファニーの写真


*ジョージア-ナ.マクドナルド(ジョージー)

 
ジョージー16歳の写真             ロセッティ作のジョージーの肖像画1860年、結婚を祝って描く

1856年、エドワード.バーン.ジョーンズ(通称ネッド)は23歳の時に、17歳の牧師の娘ジョージア-ナ.マクドナルド(通称ジョージー)と知り合い、互いに惹かれ合う。ジョージーもネッドの影響を受け、絵の勉強を始める。ジョージーの芸術的才能は音楽にも向いていた。歌い、ピアノを弾き、作詞、編曲も楽しんだ。彼らの婚約期間は4年。やっと結婚の日取りが決まるとネッドは結婚が恐ろしいと告白した。結婚式の当日ネッドは過度の緊張で起こった喉頭炎で、宿泊先で寝込み、花嫁は看護婦をさせられた。それが最初の失望感だった。
彼らは、同じ頃結婚したロセッティ夫妻や、前年 結婚したモリス夫妻とも、家族ぐるみで交際を続けた。リジーは、ジョージーよりも10歳年上で、ジョージーはリジーに畏敬の念を抱いていた。リジーは、当時画家としてラスキンにも認められており、この時代、女性の画家でリジー以上の処遇を受けた者は数えるほどしかいなかった。

ハントの妹、エミリー.ハントは努力を重ねて数回ロイヤル.アカデミー展に出品を果たしたが、結婚を境に画家としての仕事を放棄した。リジーの友人でドイツで絵の勉強をしたアンナ.メアリー.ハウィットは、作品1点について、ラスキンの激しい個人的非難に押し潰されてやめてしまった。ジョージーの姉ジョアンナ.ボイスは1855年のロイヤル.アカデミー展に出品して、ブラウンから「会場で最高の出来」と称されたが、その後は出品できなかった。
ジョージーも結局、妊娠、出産で芸術のための時間は少なくなり、デッサンはやめてしまった。

*マリア.ザンバコ


マリア.ザンバコの肖像(ロセッティ作)

1867年、ネッドはマリア.ザンバコという女性と恋におちる。60年代後半からマリアのイメージがネッドの作品に浸透していく。やがてふたりは駆け落ちの相談をする。
だが、ネッドは、土壇場で妻ジョージーを見捨てることができないとマリアに告げ、失望したマリアは、自殺を図ろうとする。マリアは、運河で入水を図ったが、ネッドが引き止めようとして、取っ組み合いとなり、警察が呼ばれる騒ぎとなる。ウィリアム.モリスはネッドをマリアから引き離すためにローマに連れていこうとするが、結局ネッドの体調がすぐれず、ロンドンに引き返す。
ネッドの友人は、皆ジョージーを心配してネッドにマリアと別れるように助言した。それでもネッドは、なかなかマリアと切れなかった。ジョージーにとっては、苦痛に満ちた時期であった。
モリスは、自分の結婚に続いて友人の結婚も破綻したらしいことに、ひどく心を痛める。ジョージーに対するモリスの共感の意識は、この後生涯続くプラトニックな愛情に変わっていくのだった。
ジョージーとモリスは互いに尊敬しあい、支え合う優しい関係を作りあげ、そのことが傷を癒すのにも役立った。
ネッドは、その後も、他の女性にうつつを抜かし続けていたが、ジョージーは、妻としての献身に欠けることはなく、多くの時間を夫の面倒を見ることに捧げた。

「プシュケを救い出すクピド」1867年作(モデルは、出会った頃のマリア.ザンバコ)



*アニー.ミラー

1851年、ウィリアム.ホルマン.ハントは、不衛生な貧民の街で15歳の少女を見かけた。
みすぼらしい姿だが、顔立の美しい少女だった。ハントは、このアニーという少女を自分の素敵な愛らしい妻に仕立てることを夢みたのだった。貧しい生い立ちの娘なら夫に度の過ぎた金銭を要求する筈もないだろうという計算もあったのだ。

ハントは、このときの様子を回想して書いている。
「これ以上あるまいと思われるほど不潔な路地裏に暮らし、身を清潔にする習慣すらないまま....なんともいえぬ薄汚ない言葉を口にしながら町中をうろつき回り......いかにも恐ろしい無視と堕落の状態にあった。」

このままではアニーは、最初に近づいてくる男の餌食になってしまうだろうと推測した。
ハントは、アニーを自分の新作のモデルに雇い、同時に彼女の社会的地位の向上を目指して教育を受けさせようと計画した。
礼儀作法、身仕舞い、読み書きの能力が教育の中心だった。
アニーは活発で目の覚めるような美人になり、オックスフォードの中産階級のとりすました愚鈍な娘たちよりも、はるかに魅力的だった。

ハントは、聖書の世界を模索するために、1854年、中東への旅に出る。アニーは、ハントの留守中、フレッド.スティーヴンズに預けられて、読み書きと作法の勉強が続けられた。正しい話し方、立ち振舞い、歩き方、服の着こなし、髪の手入れなど、生れ育った階級を隠すために学ばなければならなかった。授業料はハントが支払い、勉学の目付け役はスティーヴンズが引き受けた。ハントは、アニーが小遣いを稼げるようにラファエル前派の信頼できる友人のみに限りモデルになることをを許可した。
(そのお墨付きの画家のなかに、ロセッティの名はなかったが。)


1856年の初め、イギリスに帰国したハントはまわりの友人たちの多くが結婚していることを知る。ミレイ、トム.セドン、アーサー.ヒューズ。チャーリー.コリンズの結婚も間近だったし、堅物だと思っていたロセッティの弟、ウィリアム.マイケル.ロセッティでさえ婚約をしていた。

アニーは、その頃ハントから禁止されていたゲイブリル.ロセッティのモデルになっていて、ロセッティは友人のボイスとアニーの三人でベルトリーニの晩餐会や舞踏会や、クレモーン遊園地に出掛け遊び歩いた。厳格なハントの目には、酒やダンスが気晴らしなのは下層階級のすることだと映った。
もともとロセッティとハントの間のライヴァル意識は職業上はもとより私的なことでも非常に強く、ハントは激しい嫉妬のあまり熱を出す。

ハントはアニーを上流婦人に相応しくするために、学校に入れ、「見下げはてた虚勢」と「どうしようもない怠惰」を矯正したいと思うが、アニーの考える上流婦人とは、美しい服を着て、余暇がある身分であった。アニーは、ハントに会っても石のように固く口を閉すようになる。その後、金銭的なイザコザの末、アニーはハントの前から姿を消す。

1863年、アニーは、貴族の男性と結婚した。貧民の出の娘が貴族階級の仲間入りを果たしたのだった。
ハントは2年後に、ファニー.ウォーという女性と結婚するが、妻は出産後すぐに亡くなり、10年後に妻の一番下の妹と再婚する。これは、両家を激怒させた。イギリスでは、このような結婚は違法だったので、ふたりは駆け落ち同然スイスで挙式した。


「良心の目覚め」1853年ホルマン.ハント作(モデルはアニー.ミラー)「甘美なる無為」1866年ホルマン.ハント作(モデルは最初の妻ファニー)
ハントは愛人をテーマにしたこの絵のために相応しい別荘を借りた。
だが、批評家からは酷評された。



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