*ショパンとサンド、愛の逃避行

1836年秋、ダグー夫人のサロンで初めてショパンに出会ったジョルジュは、ひと目でショパンに魅せられてしまった。
当時のショパンは、マリア.ヴォジンスカと婚約中で、サンドにはいい印象はもてなかったが、翌年マリアとの婚約は解消され失意に沈むようになる。
ここに1838年4月、ジョルジュ.サンドからショパンに宛てた短いメモ書きがある。

「On vous adore. george」
「あなたを熱愛しています。ジョルジュ」
久しぶりに再会したふたりは、急速に親しくなっていき、2か月後の6月には、互いになくてはならない存在になっていった。
だが、あまりにも有名なふたりには、パリ社交界の人々の好奇の目が常につきまとっていた。
サンドは、息子モーリスの健康と、ショパンとの愛を築くためにパリ脱出を計画する。いろんな情報を集めて、地中海に浮かぶスペイン領の島マヨルカ行きを決めたのだった。
当時のフランスでは旅行がブームになりつつあった。馬車のスプリングが改良され、乗り合い馬車、急行馬車が現れ、1837年には、パリとサン.ジェルマン間に鉄道が開通、川や海の旅も、より安全になって、蒸気船の発達が地中海の旅をずっと早く快適にしてくれた。初めて旅行雑誌が出版されると、その挿し絵が人々の憧れをあおった。
パリから、ほぼ一週間、バルセロナから船で18時間かかる、マヨルカ島。ショパンもサンドも、きっとその地で、芸術的な霊感を手に入れる事ができるのでは、と期待に夢をふくらませていた。
サンドは、修道院を舞台にした「スピリディオン」に本格的に取りかかりたかったし、ショパンは、カスタネットを伴った三拍子のスペイン独特の舞踊音楽ボレロを実際に聴いてみたいと思っていた。

19世紀の郵便馬車(郵便物の他に2〜3人乗ることができ、乗り合い馬車よりも速かった)
1838年10月、サンドは子供たち、召し使いを連れてパリを出発し、南仏のペルピニャンに到着。数日遅れてショパンは4日間も郵便馬車に揺られて到着しサンドたちと合流した。11月ポール.ヴァンドル港からバルセロナに向け出航。翌日夕方にバルセロナに着く。

19世紀バルセロナ
バルセロナから船に乗ってマヨルカ島のパルマにわたった。サンドは、泊まるべく宿を探すために、港の人々に尋ねるものの、皆、口を重く閉ざしていた。当時のスペインは、内戦続きで治安も悪く略奪が横行していて、他所者には心を許す人もいなかった。足を棒のようにしてやっと探しあてた宿は、あまりにも粗末で酷すぎた。それに口に合う食料を探すのは困難だった。
サンドは、落ち着いて住めそうな家探しに奔走する。
パリからの紹介状を持って、パルマのフランス領事、銀行家のカヌ夫妻などに近づきになった。
カヌ夫人の回想の記録は次のようなものだった。
「サンド夫人は非常に魅惑的な黒い瞳が、生き生きとした輝きを与えている、豊かな表情をした美しい女性であった。その見事なまでの髪は額のうえで二本の大きな三つ編みにされ、残りの髪とともに、後頭部に垂らし、とても小さな銀の短剣で飾ってあった。彼女の飾りのない装いは、ほとんど、いつも黒か濃い色のものであった。首の周りのビロードには非常に美しいダイヤモンドの十字架が吊るしてあった。そして腕にした鎖には、沢山の指輪がつけてあったが、それらは全て思い出の品に違いない。15、6歳のモーリスは、ほっそりしていた。ほとんど話をせず、心打たれるものをひとつ残らず、その小さなスケッチブックに描きとめることを好んだ。ソランジュの方は、兄と対照的に、紅い顔をして絶えず騒々しく動きたがる、健康そのものの子供だった。......彼らに同行している音楽家のショパンは、その作品で、かなり知られているので、語るまでもないが、身体の具合が非常に悪く、健康を回復するために南ヨーロッパに来たということだった。」
それから、サンドが苦心して探した甲斐あって、ショパン達はパルマ郊外のオリーヴ畑のなかに家具も、窓ガラスもついている一戸建てを借りる事ができた。心地よい風が通るので「風の家」といわれた。

「風の家」サンドの息子モーリスのデッサン
最初の数日は、とても快適で、ショパンのフォンタナに宛てた手紙には、喜びが溢れている。
「親愛なる友、僕はパルマにいる。椰子の木、ヒマラヤ杉、サボテン、オリーブ、オレンジやレモンの木、イチジク、ザクロ...そうなんだ。植物園の温室にある、ありとあらゆる木々に囲まれているんだ。空はトルコ石のような青、海は瑠璃色だ。山々はエメラルド色をしている。そして空気は、まるで天国の空気だ。一日中、太陽が輝いている。暑いから、誰もが夏の格好をしている。夜はいつまでも歌声や、ギターの音が聞こえる。.....一言で言えば、素晴らしい生活だ。」
サンドも「マヨルカの冬」で次のように書いている。
「この隠れ家のような住まいで過ごした最初の日々は、すばらしい天候で、私達にとっては、ことごとく目新しく心ひかれる自然に誘われて楽しい散策を重ねた。私は、これまでの生涯、多くの日々を旅で過ごしたが、これほど遠くに来たことは一度もない。だから、我が国のような温暖な風土で見られるものとは、全く異なった草木や土地の様相を目にするのは初めてだった。人々も、家も木々も、道の小さな石ころまでも独自の様相を見せているのだ。子供たちは、すっかり驚いて、ありとあらゆるものを収集した。」
サンドは、ペンを手に「スピリディオン」の執筆を始め、ショパンは、やっと手にいれたパルマ製のヘルマノスピアノで作曲を始めた。だが、ピアノの調子は悪く、パリに注文していたプレイエルピアノの到着が遅いのに苛立った。
マヨルカの気候は、1年で300日程は晴天、残りは厳しい雨期になる。
雨期が始まり「風の家」は天気が悪くなるにつれ、吹きさらしのなか暖房器具もなく、ショパンの咳は、ぶり返してきはじめた。
顔色の悪い外国人が妙な咳をしているという噂は広がり、家主からは立ち退きを命じられ、12月15日一家はヴァルデモーサ修道院の僧房に落ち着く。
1399年アラゴン王によって創設されたこの修道院は、1835年頃から貸し別荘として僧房が貸し出されていた。
サンド達は、3つの部屋を借りた。家賃は年35フランだった。庭には、オレンジやレモンの木に覆われ、美しい造りの広い回廊、そして教会、椰子の木に見守られている墓地などがあった。


19世紀のヴァルデモーサの修道院と、サンドのデッサン


現在のヴァルデモサ修道院 と 僧房が並ぶ修道院の廊下(それぞれ友人撮影)
腐敗と搾取によって、堕落した修道士たちは、政府の命令で追い払われていた。廃虚同然の静けさがこの修道院をとりまいていた。住人は、他にもいることはいたが、誰ひとりとしてまともな者はなく、召し使いを志願した隣人も、夜中に徘徊する老人も、内装工事で雇った職人も、皆サンド達一家の食料や、持ち物をねらった。
部屋は背の高い棺桶のような形で、薄汚れた大きな丸天井と、小さな窓がついていた。窓の外にはオレンジや椰子の木、糸杉が見え、窓のある反対側の壁には、透かし細工のほどこされたムーア風の円窓、そしてその下には簡易ベッドがあった。ベッドの横には四角い汚れた書き物机があり、その上には鉛の蝋燭立てに蝋燭が立ててあった。
マヨルカには、フランスでは味わえない大ぶりの葡萄や、上質のオレンジが驚く程の安値で手に入ったが、主食のジャガイモや野菜は、足もとを見すかされて、法外な値段で売り付けてくる。おまけに、地元の料理は、どれもこれも豚肉料理だらけで、サンド達の口に合わない。
この島の経済は、豚飼育で支えられていた。
島の住人たちは、日曜礼拝にも姿を見せないサンドたち一家や咳き込むショパンを嫌った。
1月17日、外界から孤立している修道院に思いがけない訪問客があった。デンボウスキーという名の旅行家で、 サンド宛ての手紙の束を届けるためであった。
サンド夫人は、いつもながらの丁寧さと魅力的で気取りない様子で、私を迎入れ、夕食に引き止めようとした。彼女宛ての手紙の運び賃を支払うためだと言った。その夜、私は居酒屋へ戻ったが、村人たちの踊りは、まだ続いていた。見物客のなかには、村長と司祭がいたが、彼らは、私が孤独な住人たちを訪れた事をすでに知っていた。ジョルジュ.サンドがその朝の式に出席しなかった事に、村の純朴な人達がどれほど気を悪くしたか、想像を絶するほどであった。「今度ばかりは、あのフランスの御婦人は、徹頭徹尾、別世界の女性ですな。」と司祭が言った。「考えてもごらんなさい。彼女は誰とも口をききもしなければ、教会に現れた事は一度もないのですからね。心に大罪をどれほど重ねていることやら、まったく神のみぞ知るですよ。」
司祭のこうした言動から、マヨルカ島民のサンド一家に対する印象が伝わってくる。
サンドも「マヨルカの冬」で次のように述べている。
「私達は、マヨルカで、まるで砂漠にいるように孤立していた。風が山峡で、ヒューヒューとすすり泣くように吹き、雨が僧房の窓ガラスを激しく叩く。雷鳴が厚い壁を貫き、遊び興じている子供たちの笑い声のなかに陰うつな響きを投げこんでゆく。..........私達は、あらゆる救いの手からも、好意からも見放された囚人のような気がしていた。そして私達のなかの誰かを捕まえようと死神が頭上を舞っているようであった。私達だけで、死神からその餌食を必死になって守っていた。私達の周囲には、近くにある「いわゆる危険」にできるだけ早く片をつけてしまうために、墓の方へ彼を追いやろうとしない人間は一人として見当たらなかった。村人たちの敵意を考えると、恐ろしい程、惨めであった。」
それでもなんとか暮らしに落ち着き、サンドは小説を、ショパンは曲作りに専念する。
僧房の円天井にショパンの旋律は、とても美しく響いた。サンドは、それをうっとりと聴いたのだった。
この住処は、自然の美しさと比類のない詩情に満ちていて、ふたりの仕事の邪魔をするものは何もなかった。
2か月も待ってプレイエルのピアノがやっとパルマに到着したが、税関でさらに長い期間留まり、300フランという高額な税金を払って、やっと1月22日頃ピアノを手に入れることができた。だが、その頃にはショパンの体調はかなり悪化していた。


前奏曲の他バラード2番、スケルツォ(嬰ハ短調)、ポロネ−ズ(ハ短調)などはマヨルカで書かれ、そのうち前奏曲ホ短調を書いた後、ショパンは寝込んでしまった。
旅は、悲惨だったが、ふたりの絆は、とても強いものになった。
サンドはショパンの滋養のために山羊を飼い、スペイン料理を嫌うショパンの為に、ヴァルデモーサの山を下って、パルマまで買い出しに出掛けた。ヴァルデモーサでは、ラードは酸化し、香辛料としてトウガラシが必ず使われているので、ショパンの身体には合わなかった。
サンド自ら料理を作り、山羊のミルクを飲みやすくするために、アーモンドをすりつぶして混ぜ合わせた。
ショパンはこのときのサンドへの感謝を後に手紙で友人に伝えている。
「今度の冬は、南仏か、パリで過ごすことになると思います。僕は、酷くやせ細り、血色が悪くなりましたが、今は旺盛な食欲もあります。僕のいつもの咳で、スペイン人たちが僕を苦しめた事や、彼の地で、味わった様々な楽しみを付け加えてください。彼女は、絶えず、僕のことを心配してくれました。土地の医者から見放されていたために、彼女はたったひとりで、僕の看病をしなければならなかったのです。彼女が僕の寝台を整え、部屋を片づけ、煎じ薬を作ってくれるのを見ていました。彼女は僕のために、あらゆるものを断ち、一通の手紙も受け取らず、尋常でない生活環境のなかで絶えず母の優しいまなざしを必要としている子供達に気を配っていました。そのうえ、彼女はペンを走らせていたのです。...........」
だが、マヨルカの気候は、さらに厳しいものになり、ショパンの病状は、ますます悪化していった。
3か月が過ぎた2月中旬、マヨルカを立ち去る決心をする。パルマまでショパンを運ぶ馬車を島の人々に借りようとするが、断わられ、一輪の手押し車で、3リューの道をパルマまで進まねばならなかった。パルマに着くと、ショパンは大量の喀血をした。なんとか蒸気船に乗り込むが、狭い船内の中は、豚だらけで、快適とは程遠い環境であった。ショパンは、ここでも洗面器一杯の喀血をする。
バルセロナに着くと、フランス領事と海軍司令官が戦艦に迎えてくれて、船医の手厚い治療で、なんとか24時間後には肺の出血は治まった。領事は、馬車で一家を宿に送り、ショパンは一週間そこで静養し、海路フランスに戻った。
サンドは、友人に手紙を送っている。
「二度とスペインの地に足を踏み入れることはないでしょう。ここは、どんな点でも私に向かない国です。
マヨルカの気候は、ますますショパンの健康にとって、有害なものになりました。私は、そこから出るのを急ぎました。
村人たちの習俗といったら! 山からパルマまでの、酷いでこぼこ道を3リューも行かなくてはなりませんでした。
車や馬、雄ラバなどを所有している人を十人ばかり知っていましたが、一人として私たちに貸してくれる事はなかったのです。その理由は?ショパンが咳をするからですわ。スペインでは咳をする者は、誰でも肺結核にかかっていると宣告されます。
そして、肺結核の者は、誰もがペスト患者、らい患者なのです。至るところから彼を追い払うために石や棒や警官が足りないほどです。というのも、肺結核は伝染すると考えていますから。二百年前に狂犬病にかかった人間を絞め殺したように、できることなら病人を撲殺するべきだと言うのです。
私の申し上げていることは、文字どおり事実ですわ。ショパンは咳のために、私はミサに行かないために、私達はマヨルカでは嫌われ者でした。子供たちは、道で石を投げられました。私達は異教徒だと噂されました。この愚かで、泥棒で、狂信的な国民の臆病さ、不誠実、利己主義、愚鈍さ、意地悪さを伝えようと思えば、10巻の書物を書かねばならないほどです。私がヴァルデモーサを訪れることは、二度とないと思います。.......」
彼女の手紙は悲惨な旅に終わったことをよく伝えている。
サンドは、マヨルカの旅から2年ほどして紀行文「マヨルカの冬」を執筆するが、そこには、美しい自然、風景、焼き物、民族衣装の細部にわたって賞賛しているが、土地の人々への批判、スペイン政府への憤り等、手厳しく綴っている。それは、差別意識ではなく、純粋にフランスから見て、礼儀知らずで、困っている旅人に手を差しのべることなく病人を迫害する人々との共感などできないという結論であった。
スペイン側では、「マヨルカの冬」について、猛烈な反発を示した。子供二人と若い愛人を連れて、勝手にマヨルカに長々と滞在したフランス人作家。愛人は肺病、娘は男の子の格好、紹介状も持たずに来た非常識者。自分の非を棚にあげ、マヨルカ島を未開の地のように書き、文化の遅れを怠惰だと非難し、農民を盗人呼ばわりし、ついには、「猿の島」と名づけた不届き千万なフランス人......スペインの批評家たちは、こぞって騒ぎ立てた。
サンドは、批判には慣れていた。
自然描写、建造物の美しさも十分に書き、旅のなかで宗教、民族を考えるという収穫も織り込めた。もう少し時がたてば、スペインでもこの作品の価値が違う所にあるのだということを認めてくれるのではと序章部分に付け加えて、批判への反論をしている。


民家の壁にはめ込まれた聖カテリーヌのタイル(友人撮影)